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学園法人本部|本学園卒業生で東京2020パラリンピック日本代表の髙桑選手(NTT東日本所属)に、深谷・東京両高校の陸上部生徒がインタビューしました。


2021年12月15日

2021年11月9日、東京成徳大学深谷高等学校の卒業生であり、東京2020パラリンピックに日本代表として出場した髙桑早生選手(NTT東日本所属)が、本学園法人本部に来校し、高校生によるインタビュー取材に応えてくださいました。
取材の前には、まず本学園木内理事長と対面していただきました。
東京2020パラリンピックのことや共通点である出身大学体育会などの話題で話は進み、途中から高校時代の陸上部顧問 江原良則先生(現在も同校在籍、陸上競技部顧問)も加わり、短い時間となりましたが、懇談しました。

その後、東京成徳大深谷高等学校(以下、深谷校)と東京成徳大学高等学校(以下、東京校)の陸上競技部生徒が待つ、取材会場へ移動。両校生徒と対面し、お互いの自己紹介の後、いよいよインタビューが開始です。
取材には、オンラインで深谷校から陸上競技部4名、東京校から陸上競技部3名(高等部1名、中高一貫部2名)と生徒会2名(中高一貫部)が参加。生徒の他、深谷校陸上部顧問の江原先生は懇談に続き参加、そしてオンラインで深谷校の神田校長が参加しました。

世界で活躍する陸上選手である髙桑選手を相手に、普段から陸上競技に励む生徒たちは、一人ひとりが事前に考え、用意した質問を、緊張しながらも直接問いかけていきます。
髙桑選手は、それらそれぞれの質問一つ一つに対して、とてもていねいに答えてくださいました。

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基本を培う部分は高校生と同じ
高校時代にやってきたことを大事に、今でもトレーニングを続ける
Q: 普段どういう練習をしているかということと、練習のときに心がけていることを教えてください?(東京校 1年)
たぶんですが、皆さんがやっていることとほとんど変わらないです。
基本的にストレッチから始めて、ハードルドリルの練習をしてから、その後は週に2回のダッシュの練習と、私の場合、走り幅跳びもやっているので、週に1回の跳躍練習をしています。シーズン中も週2回のウエイトトレーニングはある形です。
おそらく、皆さんに私の練習内容を見てもらったら、「えっ、私たちとやってること同じじゃん」って言われちゃうんじゃないかな、っていうぐらい同じような練習をやっています。というのも、普段からの基本を培う部分は、私も皆さんも変わりません。
今でも、高校時代の陸上競技部でやってきたことを大事にしながら、毎日トレーニングをしています。

東京成徳大深谷高の入学から陸上競技をスタート
同じ年の北京パラリンピックが次のロンドンを目指すきっかけに
Q:高校時代からパラリンピックを目指していましたか?(深谷校 2年)

私が義足になったのが、中学1年生のときです。まだ高校をどこにするかも決まってないような頃に、義足になりました。
その頃から、私はスポーツがすごく好きで、何となくパラリンピックというものはぼんやりと頭の中にはあって、体を動かして、自分がスポーツを極めていくと、こういう舞台があるんだなぁ、というような気持ちだけはありました。
決定的になったのは、2008年です。
2008年というと、私がちょうど東京成徳大学深谷高校に入学した年で、陸上競技部に入り、陸上競技を始めた年です。
2008年は何があった年か分かりますか?
北京オリンピック・パラリンピックがあった年なんです。
そのとき初めて、私はテレビでパラリンピックというものが、どんなものなのかを見ることになりました。ちょうどといっては何ですが、本当にタイミングが良くて、陸上競技を始めて、パラリンピックを目指しているという方ともお会いして、東京成徳大学深谷高校のグラウンドでトレーニングを始めた年でした。当時が2008年だったので、次のパラリンピックは2012年。これから高校3年間、トレーニングをして、次のパラリンピックを目指そう。
そう思ったのが、ちょうど高校入学の頃で、その頃から具体的にパラリンピックを意識してトレーニングをするようになりました。


司会の生徒から、この質問と髙桑選手の回答にあわせて、同席の当時顧問であった江原先生にも以下のような質問がありました。
Q:当時も顧問だった江原先生にもお聞きしたいのですが、髙桑選手の高校時代のことで何か覚えていることはありますか?

一番印象的だったのは、高校1年生のときです。
埼玉県北部の地区大会のことですが、通常、義足の選手の出場はありませんでした。ところが、髙桑さんから大会に出たいということで、出場する各高校陸上部顧問の先生が集まる会議の中で、「義足の選手なんだけれども、出場させていただけますか」とお願いしたところ、意外にも全員の先生が「いいよ」と言ってくれました。
それで、髙桑さんも地区大会に出場することができました。出場は100mだけでしたが、髙桑さんがスタートラインについたとき、その時の本人は全く知らないことと思いますが、私と一緒にいろんな学校の先生がそのレースを見ていました。私も「どうなのかな」という不安な気持ちで見守る中、髙桑さんがスタートして。
スタートでは、やはり他の学校の生徒から遅れてしまい、結果は16秒台。でも、遅かったということより「走れた、走って走り終わった喜び」とでもいうのか、そんな表情がものすごく私には印象的でした。
高校3年生まで、ずっと大会に出ていました。高校2年生のときに、走り幅跳びも始めましたが、ある時は200mも結構走っていました。
皆さんはちょっと信じられないと思いますが、3年生のときには400mリレーを2走で走ってもらって…なんていうことも実はありましたが、いろんな種目をやってもらいました。
とにかく、私にはあの初めての大会のあの時の表情を、きっと髙桑さんが思っている以上に覚えています。
当時を知る江原先生から、このようなとても素敵な良いエピソードを聞くことができましたが、髙桑選手はこのお話を初めて聞かれた様子で、少し驚かれていました。

パラリンピックはいつでも「夢の舞台」
出場した3つの大会一つ一つにそれぞれで大きな思い出
Q: ロンドン、リオデジャネイロ、東京の3大会に出場しての感想をお聞かせください。(深谷校 2年)
私が初めて出場したパラリンピックは、2012年のロンドン大会のときです。
それまで、言ってしまえば日陰の存在だったパラリンピックが、一気に注目を浴びるようになって、史上最高に成功したと評価された大会でした。私は、その大会に選手として出場したわけですが、初めてのパラリンピック出場であっても、「これは本当に、今までになく素晴らしい大会」とわかったぐらい、本当に見事な大会でした。この後にパラリンピックを開催する国は大変だろうな、と思ったくらい素晴らしい大会でした。
実際には、そんな我々の心配をよそに、リオデジャネイロ大会、そして東京大会も素晴らしい大会になりましたが、私のようなパラアスリートにとっては、やはりパラリンピックはどんな大会でも特別な舞台なんだな、と出場する毎に感じています。
その3大会、私個人としては、それぞれで自分の立場が違う大会になっていたなと思っています。
最初の大会のロンドン大会は、もう初心者。本当に、何も、右も左も分からない。「当たって砕けろ」みたいに、何も怖くない状態でぶつかっていくことができて、最初から最後まで「楽しかった」という大会でした。

ロンドンから4年後のリオデジャネイロ大会は、4年間しっかりとパラリンピックを目指して取り組み、「少しアスリートって言えるように、また言ってもらえるようになったかな」くらいの気分で、気持ちで臨んだ大会でした。もちろん、自分の立場も変わり、応援してくれる人やいろいろな周りのサポートの数も変わり、責任のようなものもしっかり加わったと感じた大会でもありました。

今回の東京大会は、私だけではなく、多くの人にとってもすごく重要な大会になったと思います。それは、自国開催であったということ。加えて、新型コロナウイルスという全く未知の状況。最適な大会運営をするにもどのようにしていいかわからない、手探りでやっていかなきゃいけない、そんな状況の中で我々は海外の選手を迎えて出場する、というすごくいろいろな意味で特別な大会になりました。
ただ、私にとってこの3つの大会は、今のところどれも、ひとつひとつが印象に残っている大会です。
私にとっては今でも夢の舞台ですし、パラリンピックに出場して得られるものは本当に唯一無二なもので、一つ一つの大会それぞれで大きな思い出が作れたかなと思っています。一言で言うと、「夢の舞台」だなというのが、3大会を経験してみての感想です。

「好き、楽しい、挑戦したい」が私の原動力
気持ちの根底にある「好き」という思いを大事にしたから足を切断する決断ができた
Q:私は9月に膝の手術をして、今リハビリ中なんですけれど、辛いときにどのように、どう乗り越えられましたか?(東京校 2年)
大変ですね…。9月?つい最近ですね。やはり辛いときは、辛いですよね。
皆さんきっと、いろんな思いを持って、陸上競技というものに臨んでいると思いますが、その根底には陸上競技が好き、スポーツが好き、体を動かすのが好きという、すごく純粋な思いがあるはずです。
私にとって、その「何かを好きだな、何かをやるのが楽しい、何かに挑戦したい」ということは、すごく原動力になっています。それは苦しいときや、もうやめてしまいたいなって思ったときこそ思い出すようにしていて、「自分は何がしたかったんだっけ、何が好きなのかな」というように、そこに立ち返るようにしています。

少し状況は違うかもしれないですが、私が足を切ったときのこと。
中学校1年生で病気が見つかって、どうして足を切る選択をしたのか。実は、足を残す方法もあったんです。足を残す方法もあって、残すか、切るか。
お医者さんからいろいろな説明を聞いた後、「残すか、切るか、あなたが決めなさい」と中学校1年生のときに言われました。そのとき、どうしようかなって考えるじゃないですか。それで、「私は何がしたいんだろう、このあと」と、ふと思ったときにスポーツがしたいと思ったのです。

小さいときから、いろいろなスポーツをやってきて、そのスポーツが自分のこれからの人生において、全くできなくなってしまうことは、まずありえない。主治医の先生からアドバイスをいただいた言葉の中には、「今、義足も良くなっているから、ひょっとしたら義足になってしまったほうが、スポーツをやりたいのであればいろいろな選択の幅が広がるんじゃないの」とも言われました。
やはり、私はスポーツが好きで、体を動かすことが好きで、何か必ずスポーツをやりたい。まだ陸上競技とは決めていなかったときですが、「何かスポーツをやりたい、それならば切断して義足になってしまおう」と決めたのです。
今思い返してみると、そのときも自分は何が好きなのか、何のために生きていきたいのか、人生に何が必要なのかを考え、自分の気持ちの根底にある「好き」という思いを大事にしたから、足を切断する決断ができたのかな、と思います。
何で陸上競技をやりたいのか、自分は好きな気持ちでできているのかについて、一度自分で向き合ってみることは、意外と大事なことなのだと思います。
がんばってください。応援しています。

しがみつくだけがトレーニングの方法ではない
その状況を受け入れて、少し冷静に解決策をゆっくり、じっくり探していけばいい
Q:練習が上手くいかないときもあると思いますが、その時はどのような気持ちですか?どのようにモチベーションを高めていますか?(深谷校 2年)
「上手くいかないときは、上手くいかない」と思うようにしています。
高校の練習時間は、2~3時間があるかないかくらいと思いますが、限られた時間の中、練習が上手くいかないまま取り返そうと思ったところで、それは空回りしてしまうように思うのです。焦れば焦るほど、次の練習、そのまた次の練習に響いてくるものなので、「何かもう、今日はだめだ!」って思ってしまうのも、一つの手段なのではないかと思います。しがみつくことで、何か得られるものもあるかもしれないですが、でも基本的には「今日だめだ、明日がんばろう」みたいな、それぐらいの気持ちで臨んでもいいんじゃないか、と思っています。

一生懸命にしがみつくことだけが、トレーニングの方法ではないと思います。もちろん、毎日が投げやりになっていまったら少しもったいない気はしますが、1回気持ちをリセットするというか、だめな気持ちは置いておいて、ちょっと時間があれば別のことをやってみる、という方法もあると思っています。「だめなときは、だめ」その状況を一回受け入れてあげて、少し冷静になってから何がだめなのかを簡単でいいから考えて、ノートに書き出してみる。
そこから、誰かに相談するのもいいと思うし、解決策をゆっくり、そんなにたくさんの時間はないかもしれないですが、許される限りじっくり探していく、というのがいいのではないでしょうか。私は、そんなふうにしています。

人へのアドバイスも自分のトレーニングに
自分のためであれば、表現の仕方も工夫するし、自分の勉強になる
Q:今、私は2年生になって後輩ができて、アドバイスをすることが増えたのですが、人にアドバイスをするときは、どのようなことを心がけているか教えてほしいです。(東京校 2年)
私も高校3年間を陸上部、大学の4年間は、私の大学では体育会の競走部と言いますが、競走部で後輩を持つ立場を経験しましたが、こればっかりは難しいです。本当に難しいと思います。
人っていろんな人がいて、たぶん経験したことあると思いますが、言葉の使い方とかでもすごく伝わる・伝わらないということに、大きく関わってくると思います。高校生というより、大学生のときですが、私が一つ心がけていたのは、例えば後輩へのアドバイスで気になったことがあれば声をかけてあげるとき、競技面の話で言えば、自分のトレーニングだと思って声をかけることを意識していました。

そういうことを取り入れてみれば、後輩とのコミュニケーションの機会にもなるし、自分が話すことで自分のトレーニングにもなっていく。
いろいろな経験を重ねて、いろんな状況、パターンを経験していくことでしか上手なアドバイスができるようにはならないのかな、と私は思っています。
どういうことかと言えば、例えば何かアドバイスをするときに、この問題に対して自分だったら自分はどう考えているんだろう。
これをどのように解決したいのか、自分だったらどのように解決するのかを人に話すことは、すごく勉強になることです。
「こういう動きがやってみたい」それに対して、自分はどんな風にやっているかについて、人にしゃべりながら、人に教えながらやるっていうのは、すごくいいトレーニングになると思うのです。
なので、一つのトレーニングと思って、積極的に自分のやってることを、「立って、やって、ばぁっと走る」みたいな感覚だけの話ではなく、実際にどういう風に100mを走っているのか、どういう風に投げているのかを言語化してみる。これが、実は自分のトレーニングにもなったりするので、あえてそういう場を設けてみたり、今日はみんなで自分の感覚について話す日にします、とか。

人によっては、人とのコミュニケーションがすごく上手だったりして、後輩とコミュニケーションなり、アドバイスを送ったりする人もいますが、せっかく部活動という中でトレーニングをメインとするコミュニティにいるわけだから、「自分のためにもなる」「後輩へのアドバイスは自分のトレーニングにもなるんだな」と思うようになると、ちょっと表現の仕方を自分の中でも工夫しながらできるようになるんじゃないかな、と思います。
難しいですよね、気持ちは分かります。

3年後のパリパラリンピックの出場は目指したい
いつまで続けるかは分からないが、体が動き続ける限りは走っていたい
Q.何歳ぐらいまで競技を続けようと思っていますか?またパリパラリンピックを目指しますか?(深谷校 2年)

まずパリのパラリンピックですが、本来は4年に1回のはずなのに、開催は3年後なんですよね。そこは、目指したいなと思っています。
パラリンピックは、普通のスポーツとちょっと違って、障がいのクラスによっては、例えば私の義足のクラスであれば、結構年数がものを言うことがあります。
自分の体ではないものを扱い、扱った分だけ、自分の体に馴染んで、上手くコントロールできるようになることがあるので、「体が動き続ける限りは走っていたいな」と思っています。今のところ、代表レベルを続けるということで言えば、パリのオリンピックはまだまだ具体的に存在しているのかな、と思っています。
何歳まで続けるかは、具体的には決めていないですが、少なくともパリのパラリンピックまではしっかり皆さんの目に入る、目に届くところで、競技ができるようにしたいなと思っています。

選手村は、真に多様性、共生であふれた「It’s a Small World.」
できる人ができることをやる、皆さんも柔軟に対応できる人になってほしい
Q:何歳ぐらいまで競技を続けようと思っていますか?またパリパラリンピックを目指しますか?(深谷校 2年)
私が一番多様性や共生を感じた瞬間は、選手村にいるときでした。正直、私たち競技者は、競技で結果を出すことが一番で、自分のやってることが多様性や共生社会につながるってことを具体的に競技と直結させて考えることは実は難しいです。ただ、競技から一歩離れたとき、自分の日常生活でいえば、パラリンピックの場合、選手村というところ。今回は特に、選手は基本的に選手村の中にいてください、という状況でした。

例えば、今この中に膝から下が義足の人?と聞いたら、私ひとりですよね。パラリンピックの選手村では、人をざっとそろえたとき、多分この中の半分ぐらいが義足になります。
私は、普段の生活ではいわゆるマイノリティと呼ばれる立場の人間のはずなのに、選手村に入ると途端にマジョリティになるんです、不思議なもので。車椅子の人だって、見渡せばいくらでもいる。目が見えない人もいくらでもいる。なんなら私は、選手村に入ってしまえばいろんなことを手伝える、かなり動ける人になるんです。
選手村の外の世界では、どっちらかといえば動けないタイプに見られがちなんですが、そうではなくなる。もっと、足やら腕やらない人がいっぱいいるんです、選手村に入ると。
これって、真の共生社会、多様性の社会なのではないか、って選手村に入ると思うのです。だから、いろいろ人に選手村の中に入ってほしかったなって、今思うぐらいで、ちょっと難しいと思いますが、もし別のパラアスリートが競う世界戦が東京であるなら、ぜひ選手村に入ってもらいたいです。
例えば、目の見えない人を車椅子の人が先導していて、もちろん、私も目が見えない人と一緒にいれば、「はい、肘持って」と言ってサポートしていました。普通にそういうやりとりが行われる。できる人ができることをやって、手を差し伸べて、ということがものすごく自然に行われるんです、選手村の中では。しかも、日本人だけではなく、世界各国の選手がいます。選手が過ごす棟には、それぞれがリラックスできるように、いろんなものが持ち込まれていました。

私は選手村のことを「It’s a Small World.」って言っていますが、これこそが本当の多様性であり、共生社会なのではないかなと思います。皆さんもあまり見たことがないと思うので、上手く説明ができないですけれど、できる人ができることをやる。皆さんが置かれる立場が変われば、その役割も変わってくるはずなんです。
これからどんどん今よりも、多様性がキーワードになってくる社会になると思います。
そのとき、どうやって自分たちで柔軟に対応できるかということを、ぜひ学校にいる間でも、大学にいってからでも経験して、柔軟に対応できる人間になっていってほしいな、と思います。
そして、いつか機会があれば、いろいろな障がい者のいる場を経験できると良いなと思います。なかなか経験できる場所は無いかと思いますが、そういう場があるといいな、というように思います。
これからは障がいを持つ人たちが、どんどん社会で活躍しやすい環境になっていくはずなので、今後皆さんがいろいろな人に出会う中、自分が今できることを柔軟に、すっとやってあげられる。
そういう人に、皆さんがなっていってくれたら、これからの日本の社会も変わっていくんじゃないかなと、私は選手村というものを経験して思いました。

インタビューを終えて

生徒からのそれぞれのインタビューが終わったところで、髙桑選手はまだまだたくさん話したい、とも言ってくださいましたが、予定の時間を迎えたため、インタビュー取材は終了となりました。
髙桑選手に答えていただいた一つ一つの回答は、どれも貴重なお話で、取材会場にいた生徒だけでなく、同席していた教職員にとっても参考になるものでした。
インタビュー後、髙桑選手から両校陸上部に色紙にサインをいただき、思い出となるサインに生徒もとても喜んでいました。
東京成徳からは髙桑選手へ、パラリンピック出場、入賞のお祝いと本日の取材のお礼を兼ね、生徒より花束をお送りしました。
花束は参加した両校生徒を代表し、東京校の生徒会よりお渡ししました。
最後に、髙桑選手と深谷校、東京校全員揃っての記念撮影をして、この日のインタビュー取材は終了となりました。

後日、インタビューをした生徒は、それぞれから思い思いの感想が聞かれました。以下は一部ではありますが、ご紹介します。

「ずっと笑顔で私たちに話しかけてくださり、とても優しい方でした。質問にも真剣に答えてくださり、メリハリを一瞬でつけられるところにも、とても尊敬します。」
「辛いときほど自分を見つめ直すこと、そして明確な目標、自分がしたいと思うことを明らかにすることが必要と思いました。」
「悩みに心が負けてしまうことは不幸であり、どんな悩みでも自分が成長できるチャンスととらえて頑張っていけることは幸せなのかなと思いました。」
「私も高桑選手のように、自分の経験を活かして、人を励ますことができるような人になりたいです。」
「短い時間でしたが、お話を伺い尊敬することがたくさんあり、初めて心の底から”こういう人になりたい”と思う憧れの選手となりました。そんな高桑選手に近づけるように、これからは練習していきたいです。」
「選手村では『障がいを持つ方たちが自然に助け合い、全員が自分のできる最大限を率先してやっていた』とお話を伺うことができ、大変貴重な経験をしたと思います。」

生徒たちも、とても良い経験ができたと感じているようです。

学校法人東京成徳学園では、卒業生髙桑選手の今後の更なる活躍を期待して、これからも応援していきます。

髙桑 早生(たかくわ さき)選手

プロフィール
生年月日:1992年5月26日
所属  :NTT東日本
出身校 :東京成徳大学深谷高校~慶應義塾大学
出身地 :埼玉県
血液型 :O型
※プロフィールは、NTT東日本ホームページ NTT東日本シンボルチーム選手紹介より
https://www.ntt-east.co.jp/symbol/kobetsu/contents/takakuwa.html